現在の日本でまかり通っている常識・習慣

この「しゃかじいの庵」では世の中で物事がどのように考えられ、評価され、一般化しているのかを中心に風刺をふくめて自分の意見を述べていきたいと思います。世の中で常識化していることに物申すといったスタイルで話題を提供したいと考えています。
世にいう先生とはなにか?
一般に先生とは?
先生を文字のまま解釈すると「少なくとも自分より先に生まれた人」ということになるが、
現実的にはたとえ自分が年上であったとしても、相手の立場により先生と敬称をつけて話さなければならないことが多々あることは皆さんご存知ですよね。

teacher♡
広辞苑の定義
あの権威ある広辞苑では「①先に生まれた人。②学識の優れた人・自分が支持する人。
またその人に対する敬称。③学校の教師。④医師、弁護士など指導的立場にある人に対する敬称。
⑤他人を親しみまたはからかって呼ぶ称。」と記載されている。

広辞苑
違和感のない先生
一番一般的なのは学校の教師で、学校の教師のことは多くの人は先生と呼んでいてあまり違和感がない。
その他、自分が或る人から学問や技術、芸術、茶道・書道・華道などの伝統芸能、音楽・芸能などの教えを受けた場合にも、教えてくれる人のことを先生と呼んでいますよね。これも割と素直に受け入れられるのではないかと思います。

先生
先生も多種多様
昔は師とか師匠と呼んでいたのだと思うのだが、先生と呼ばれる対象の人は色んな分野に及んでいる。
学校の先生以外にも具体例をあげるとピアノの先生、歌の先生、水泳の先生、体操の先生、陸上競技の先生、書道の先生、華道の先生、茶道の先生、絵画の先生、菓子作りの先生、料理の先生など数えればきりのないくらい先生がいることに気づく。

teacher
教え、教えられる関係
このように直接教える、教えられるという関係の中では教えてくれる人の事を先生と呼ぶのは確かに理解できる。

teacher
直接教えを受けなくても先生と呼ばれる人達
しかし、世の中にはそのような関係になくても、その人のことを先生と呼ぶ場合がある。
医師、歯科医師、薬剤師、代議士、弁護士、作曲家、作詞家、博士などのような職業または資格を有している人は一般的に指導的な立場にあるという理由で、特に自分が直接教える教えられるという立場になくても呼びかける時に先生と呼ぶか人名に先生を付けて呼ぶケースが多い。

先生
先生という呼び方に慣れてしまう人達
これは学識がある人や指導的な立場にある人を敬うという世の習わしによると思われる。
このような専門職や指導的な立場の人は自分が先生と呼ばれることに慣れてしまい、一般社会でも職場でも常に自分が先生と呼ばれても違和感を感じないようになります。

先生?
その結果、全く知らない他の人からいつも先生と呼ばれたりするものだと考えるようになったり職場でも同僚の人や目上の人に対して、場合によっては目下の人に対してもいつどのような時でもお互いに先生と呼び合うようになります。
ある意味、自分たちが社会的に一般の人よりワンランク上と自他ともに認められる存在と考えていることが根底にあるような気がします。
だから違和感なく先生とお互い呼び合えるし、一般の人から先生と呼ばれることも当然だと受け止めているのではないかと思います。
先生という呼び方への違和感
そういう「しゃかじい」もそのような職業や資格を有する人間なのですが、仲間内でお互いに先生と呼び合うことにはかなり抵抗がある。
そのように仲間内でお互いに先生呼ばわりをしているのを耳にすると、何かくすぐったいような気がして、思わず笑い出したくなるような時がある。
エッヘン!

先生とは?
世の中の新しい流れ
しかし、最近会社なんかでも、会長、社長、専務、常務、部長、課長と呼ばずに名字にさん付けで呼ぶようにしているところも多く見かけるようになって来ています。
こちらの方が自然な感じがしますが、それは私だけだろうか。
実際に違和感を感じざるを得なかった体験
ある時、役所の人が仕事場に来た時の話ですが、私に対しては名字に先生を付けて呼ぶんですが、専門的な資格がない人に対しては名字にさん付けでしか呼ばないんですね。
確かに私は国家試験に合格し、免許を取得しているんですが、実際上、免許は有していないが、具体的に実務上のことをよく知っている人がいて私にいつも教えてくれているから仕事が成り立っていることも多いわけで、資格がある人には先生と呼ぶが、実際上仕事に深く関与しながら資格がない人には決して先生とは呼ばないことを目の当たりにし、非常に当惑したわけです。
慣習的な呼び名としての先生
そうすると、先生という言葉の原義である教える、教えられるという関係に立ち戻って考えると全く不可解な気持ちになるわけです。
要するに今の日本の世の中では国家資格があったり社会的に指導者として偉いと思われている人には慣習的に先生と呼ぶということになっていますよね。
福沢諭吉先生も言っておられますが、かの有名な「学問のすすめ」で学問の重要性を説いていますが、ここで言う学問とは単に机の上で学ぶものだけを指しているわけでなく、世の中を渡る上で得た幾多の経験、実務的な仕事を通じて世の中に役立つようなことなど、多様であることを指摘なさっています。
したがって、どの仕事が優れているとか偉いとかということでなく、この社会が成立するためには多くの専門的な知識、知恵、技術などを身につけた人の共同作業が必要であることを説いているのだと思います。
例えば、八百屋や魚屋や肉屋などがないと食生活は成り立ち得ないし、設計士、建築業者、大工さん、塗装屋さんなどがいないと住居は出来ないわけで自分たちが円滑に生活するためには数多くの社会や組織の中で役に立つ職業が受け持つ職能が必要であることは自明なことですよね。
このあたりのことを冷静に考えて自分を見つめなおすことが全ての人に求められているのではないでしょうか。
これまでは学歴偏重社会とも呼ばれていますが、学校で机の上で学んだ知識、経験が重要視され過ぎていたのではないかと思います。
お互いふざけるか、親しみをこめて呼び合う先生
その他、職場でふざけて同僚に話しかける時に「オッ 先生」とひやかし半分に呼び合ってみたり、飲み屋でお店の人から「先生」と呼ばれていい気になっている場合とか、「先生」には色んな使い方があるんだなとほとほと感心してしまいます。
先生という言葉はそれ程便利で、相手を悪い気にさせない魔力があるんですね。
海外との違い
海外では、小学校、中学校、高等学校の先生は、Teacherと呼ばれていませんよね。
Mr.JohnsonとかMrs.Brownというふうに名字で呼びますよね。
大学の先生に対してはProfessor Kennedyとか言っていますが、家庭教師や英会話教師などはファーストネームでTomとか呼んでいますよね。
日本だと失礼じゃないかと思われていますが、海外では常識ですから、日本で先生という呼称をつけるのも単なる慣習で、それが常識化しているだけなんでしょうね。
日本での常識で海外でTeacher~とか呼ぶと変に思われますよね。
今、世の中ではグローバル化の重要性が叫ばれていますが、頭の構造がローカルで閉鎖的なままではグローバル化を成し遂げることは難しいと思います。
グローバル化するためには先ず意識の根底にある古びた前時代的な慣習や組織の在り方をイノベートしていかなければならないのではないでしょうか。

teacher?
実際こうしたらどうなの提案
私「しゃかじい」の提案ですが、もっと相手に対して親しみをもって接するのだったら
通常同僚、仲間、上司、部下の間ではファーストネームまたは名字にさん付けで呼び、先生と呼ぶのは自分が特別教えを請うた人に対して用いたらと感じる今日この頃です。
日本社会だけの特殊事情だから仕方がないんでないのとかやむを得ないという考えではいつまでもこのローカルな慣習から脱出出来ないと思います。
ちなみに、海外では医師に対しては自分の命を救ってくれる存在ということで尊敬と感謝の意味をこめてドクターと呼ばれているようです。

teacher

teacher
皆さんのご意見はどうですか?
コメント