しゃかじぃ3度の死の淵から復活(Rebirth)
誰にも長い人生の中には生命の危機を感じる出来事が幾つかあると思う。
私の場合も、今このように生きているのが奇跡なくらいの3つの出来事があった。
疫痢に感染し、ほぼ死を宣告された時
細菌性の赤痢の重症型である疫痢は3歳から6歳の小児に認められる。
下痢・発熱・嘔吐・ひきつけ・顔面蒼白・意識混濁などの症状を呈して、死亡率が非常に高かった。
症状を呈してから短時間で死亡する極めて危険な疾患である。
赤痢などの伝染病は終戦後蔓延した
戦後まもないころ、衛生水準が低く、国民の栄養状態は悪く、水道水などの質も悪かった。
この頃、赤痢の患者さんの数は10万人を超えていました。
私には1歳年下の妹がいました。

兄妹
私と一緒に託児所に通っていましたが、ある時妹は落ちている 梅の実を食べていた ようで、その様子を託児所の先生に目撃されていました。
妹が疫痢になったのはその直後で、そして私にも移ってしまった。
妹が5歳、私が6歳のときだった。
命を分けたものは何か
妹は 医師の必死の治療、両親、親戚の人達の看病のかいなく、その時、数日で亡くなってしまった。
私も 症状が重く、かかりつけのY医師が「死を覚悟してください」と両親に伝えた ようです。
意識も朦朧とし、ぐったりしていたんですが、ある瞬間ぱっと目を開け、息を吹き返した ようです。
抗生物質が奏功したのではないか と言っていました。
Y医師は非常に優秀な小児科医で小さい頃から私の身体のことを知り尽くしていた方でした。
後日分かったことですが、妹はY医師でなく別の医師に治療してもらっていました。
Y医師は私を疫痢と診断をすると同時に直ちに、浣腸をして腸の中をを洗浄した ようです。
妹は浣腸をしていなかったようで、ひょっとすると、その処置が生死を分けた のかも知れません。
妹は兄貴が言うのも何ですが、小さい3歳の頃、お使いにいってもらうと、10個ぐらいの物を間違えずに買ってきたようで、すごく記憶力が良かったのをいつも褒められていたようです。
生きていたらと思うと、すごく残念でなりません。
妹は死ぬ間際に急に起き上がり、周りの人に「ありがとう」と一言残し、息を引き取った ようです。
周りの大人も、とても小さい子供の行動とは思えないと驚いていたようです。
私はこの世にまだ縁があって生き残れたんだと、今でも思い出します。
熊笹(クマザサ)の生い茂る山道を探検中に崖転落の危険性があった一件
小学校3年生の時である。
その頃、私は学校が終わると、川に釣りに行くか、学校の裏山の深い森の中を歩き野生のぶどうやグミを獲って食べたり、時には栗のまだイガの青いものを小刀で切り裂いて中の柔らかい実を食べるとか、野生児に近い生活を送っていた。
シャツを汚していつも叱られたものです。
しかし、今から考えると周りが木々に囲まれた深い森で、たった一人でいて全く恐怖感がなかったことが不思議に思えます。
未知への興味
ところが、ある時少し違った山を探検してみたくなり、いつも釣りをしている川から比較的近いところにある 全く未知の山に分け入って行きました。
その頃、本で十五少年漂流記を読んで非常に強く心惹かれた のを覚えています。
その山には一面に私の背丈より高い熊笹が生い茂っていて、細い道がついているのをたよりに前にどんどん進んで行きました。

クマザサ
人間に備わった危険予知能力
横は熊笹で覆われ、全く見えない状態で、ひたすら前進していたが、ある瞬間、人間の危険予知能力というのか、ふと立ち止まりました。
そして、前の方を見たら、何とその先は物凄い崖で、落ちたらまず命がない と、その瞬間心底恐怖感に襲われました。
そのまま進んでいたら、勿論命を落としていただろうし、ほとんど誰も通らないような山なので、行方不明ということになっていただろうと思う。
小さい子供の頃は、山に分け入っても特に恐怖心はないし、むしろ周りを楽しむ気持ちの方が強いと思います。
何はともあれ、本当に運よく命永らえることが出来た瞬間だったと思います。
恐怖心が芽生えるのは
物事が分かってくるからこそ、大きくなれば段々恐怖心が芽生えてくるのではないだろうか。
普通、成長するにつれて、だんだん危険なものには近づかなくなるものだと思います。
探検家、冒険家の偉大さ
その意味で、探検家、冒険家というのは偉大だと思います。
危険なことをを十分知りながらも、あえてその危険に挑戦するというところが凄い。
エベレスト人類初登頂に成功したヒラリーさんとノルゲイさんしかりである。

ヒラリー&ノルゲイ

エベレスト山
引用 : https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64735
太平洋をヨットで横断した堀江謙一さんしかりである。
勿論、出来るだけ危険を最小化するだけの豊富な知識や、技術、経験をともなっていなければ成し遂げられないことであるのは間違いない。
しかし、何と言っても子供のような冒険心があればこそ、このような難事業にチャレンジ出来るのだと思います。
練炭による一酸化炭素(CO)中毒死の危険に遭遇
私の従兄は石原裕次郎に特別の憧れ
私の8歳年上の従兄が高校を卒業した後、能登に来て家業の山から珪藻土を採掘する仕事に従事していた。
彼は不良というわけではないんですが、高校の時に、よりにもよって、校長室の前の窓に腰をおろしてタバコを吸っていたようです。
あやうく退学になるところでしたが、停学で済ませてもらい、運よく高校を卒業することができました。
彼は柔道5段、空手4段で見るからに強健そうで、いかにも格闘家といった風貌をしていたが、今でいういわゆるミーハーで、本人はその頃映画界に華々しくデビューした石原裕次郎に憧れていて、顔も裕次郎に似ていると自負していた。

石原裕次郎
彼は歌でも裕次郎に傾倒していて、ギターを弾きながら裕次郎の歌を歌い、どうだ上手いだろうといつも自慢していました。
体つきに似合わず、とても優しく、小さい頃よくしゃかじぃのことを可愛がってくれました。
彼はほとんど食べ物の好き嫌いはなかったのですが、私が納豆を食べているのを見て、顔をしかめ「よくそんな気持ちの悪いものが食えるね」といつも話していました。
ところが、ある時「まあ一度試しに食べてみたら」としゃかじぃの父親に言われ、食べてみた瞬間「これ美味いよ、何で今まで嫌っていたのかな」と言い、それ以来、納豆にやみつきになってしまいました。
何事にも凝り性の従兄でした。
従兄の小さい部屋ですき焼きパーティー
そんなある日、私が小学校4年生の頃でしたが、従兄が今日は家に遊びに来て泊まっていけと誘ってくれました。
従兄はその当時は高かった牛肉をたっぷり買い込んで来ていて、2人ですき焼きパーティーを開くことになりました。

すき焼き
今では贅沢な生活に慣れた若者はすき焼きなんかダサいとか、食べたくないとか不平不満を言うことが時々見受けられるようになりましたが、当時はまだ十分食料が確保できない家庭事情の家が多く、すき焼きは滅多に口に出来ない御馳走でした。
従兄は手早くすき焼きを作ってくれ、牛肉をたっぷり食べるようにすすめてくれました。
2人ともお腹いっぱいになり、寝る前にギターを弾きながら裕次郎の歌を歌ってやると言って従兄の単独リサイタルが延々と続きました。
夜も更けて来て、そろそろ寝るかと2人とも布団に入り、そのまま深い眠りにつきました。
翌朝のことでした。
起きようとするんですが、2人ともとにかく頭がガンガン痛くふらついて、最初立てない状態となっていました。
部屋が狭いうえに寒いということで、練炭をがんがん焚いていました。
間違いなく一酸化炭素中毒でした。
皆さんもご存知のように、一酸化炭素(CO)は血液中のヘモグロビン(Hb)との親和性が酸素の200倍以上と極めて高く、ヘモグロビンが末梢組織への酸素の運搬が出来なくなり死に至ります。
しかし、奇跡が起こった のです!
部屋の窓が1cmほど開いていた のです。
人間死ぬときは簡単に死ぬとよく言われていますが、本当にこの世に縁があるものとみえ、奇跡的に九死に一生を得ました。
その日は痛い頭をかかえながら、遅刻しましたが、学校に行ったことを覚えています。
しゃかじぃの人生3大危機について述べて来ましたが、誰にもそのような体験は何度かはあるのではないでしょうか。
人間の生と死を分けるものは一体何だろうと深く考えさせられます。
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