地震災害への対応で分かる平常心!
地震への対応で普段の心の在り方が分かる
福井地震発生
私(しゃかじぃ)は1948年(昭和23年)2月5日生まれで生まれてからずっと母親が私を銭湯に連れていったことはなく、いつも叔母さんが風呂に入れてくれていたようです。
戦後間もない頃は、自宅に風呂を持つ余裕のある家はほとんどなく、ほとんどの人が銭湯通いをしていました。
福井を突如襲った未曾有の大地震と続発した水害
そんなある日、1948年(昭和23年)6月28日午後17時14分頃福井県嶺北地方北部(福井市の北北東約10km、現在の坂井市丸岡町付近)を震源として大地震が発生しました。
地震の規模はマグニチュード7.1で福井市では当時の震度階級としては最大の震度6(烈震)を記録しました。
福井市は1945年(昭和20年)7月の戦災(福井空襲)からの復興途上にありましたが、この都市直下型地震で福井市を含めた福井平野ほぼ全域に甚大な被害をもたらし、隣の石川県内の被害と合わせると死者は3769人、負傷者は22000人以上、全壊した家屋はおよそ36000戸に上りました。

福井大震災で倒壊した大和百貨店

福井大震災
この福井大震災の規模は関東大震災(大正12年/1923年)と濃尾大震災(明治24年/1891年)に次ぐ大震災でした。
死者の大部分が福井県吉田郡、坂井郡に集中していて、その被害率は日本の近代史上でも類をみない大惨禍となりました。
第二次世界大戦後に発生した震災としては、東日本大震災(平成23年/2011年)と阪神・淡路大震災(平成7年/1995年)に次いで3番目に多い犠牲者を出しました。
さらに、この大震災で九頭竜川水系の堤防が地震による被害が出ていて、約1ヶ月後の7月上旬に上流部で記録的大雨が降ったため、堤防が決壊し水害が発生し、複合災害を引き起こしました。
福井はわずか3年の間に戦災、震災、水害と度重なる災害に見舞われて、福井市街は灰燼に帰しましたが、市民たちの不屈の気概と不断の努力によって不死鳥のように蘇り、力強い復興と発展を遂げました。
この経緯から福井市は市民憲章で「不死鳥のまち」を宣言しています。
その時私は叔母さんと銭湯で入浴
福井大震災発生時に私は叔母さんに連れられて家の近くの銭湯に行っていました。
まだ生後4.5ヶ月くらいでした。
地震発生時、叔母さんは自分は着替えていたらしいのですが、私は裸のままだったようです。
あまりに大きい地震で気持ちが完全に動転してしてしまったのか、私を銭湯の脱衣場に置いたまま、一目散に家に逃げ帰ったようです。
家に着いてから、あれっアキちゃんはどうしたんだと大騒ぎになり、叔母さんはふと我に返り銭湯に置き去りにしてきたことを思い出したようです。
急いで私の母親が銭湯に駆け付け家に連れ帰ったようです。
大きくなった時にその時の一部始終を聞いて、人間凄い危険に襲われると、気持ちが動転してしまい完全に平常心を失った行動に出る可能性があることを学びました。
ふと我に返った時に何か大事なことを忘れていたことを思い出すようです。
大地震のような非常時に平常心を保ち、周囲の状況を確認した上で、自分および帯同者ともに安全な場所に避難するという冷静な行動が取れる人は数少ないのかも知れませんね。
父は地震発生時手取川鉄橋
この福井大震災発生時、父は仕事で出掛けていて、帰る途中だったようです。
列車が大河川の手取川鉄橋にさしかかろうとした時、急停車したようです。
鉄橋内の線路が地震で完全に曲がっていることを見つけた人が発煙筒を焚いて列車が停車するように合図してくれました。
地震により地割れなどもあちこちに生じている大地震であったにもかかわらず、自身の危険も顧みず列車脱線転覆の危機を救った冷静で、勇気ある行動に感動を覚えます。
お蔭で父は大惨禍をまぬがれ、無事家にたどり着くことが出来ました。
どのような危険があろうとも、自身の安全を十分考慮に入れながら、多くの人達の人命に関わるような大惨禍を防止するための冷静沈着な行動が取れる人は数少ないとは思いますが、皆無ではないことも学びました。
普段から大地震などの大災害を想定した非常時にとるべき行動について訓練を通して体験しておくことは重要だと思います。
とっさの時に体が動くようにするためには普段の訓練しかないように思います。
消防署での消火訓練を見ていると分かりますが、火災発生時でなくても毎日同じ訓練を繰り返し行っていますよね。
自然に体が動くためにはそれ以外の方法はないのではないでしょうか。
地震や台風、火災等の自然災害、人災などの危急時にも冷静に平常心を保って周囲状況を十分確認して行動することは人の命を守るために最も大切なのではないでしょうか。
そして、この平常心を日頃から培う努力も怠ってはいけないと思います。
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