【等身大の世界】子供の目に映る世界とは【子供世界の特殊性】

人生

大人には想像できない世界

子供の時に周りがどのように見えていたか

しゃかじぃ
しゃかじぃ

しゃかじいは

小さい頃しか分からない世界を体験したんじゃ

 

皆さん小さい頃周りがどのように見えていたか思い起こすことありませんか?

しゃかじいにはくっきりと頭をよぎる象徴的な 3つの体験 があります。

今回はこの体験について語りたいと思いますが、その前に少し前段の話をします。

身長によって人は目線の高さが違いますが、大人の目線で見た世界と子供の目線で見た世界が全く異なっていることに意外と大人は気づいていません。

自分が子供の頃、家の部屋を広いなと感じていたにもかかわらず、大人になってから見てみると、何だこんな狭い部屋だったかと感じることありませんか?

目線の高低、つまり見上げて見る場合と、見下ろしたり、真っすぐ水平に見たりするのでは物の見え方が全く異なってくるんですよ。

よく新聞沙汰になったりもしていますが、大人が喫煙しながら歩いていて、横を通った子供の目にタバコの火が接触することがありますね。

これは大人と子供の目線の高さがいかに違うかのかを物語っていますよね。

ということで、大人と子供の目に映る世界は全く異なっていることをこれから語っていきたいと思います。

小学校の1年生の時遠足で長い川(手取川)を渡ったときの体験

小学校1年生の時の遠足で近くの大河「手取川」(石川県の川)を渡ったときの思い出話です。

手取川は石川県の主に白山市を流れて日本海へ注いでいる一級河川で、白山に源を発しています。

ニッポン旅マガジンより引用

しゃかじいはその頃、石川県の松任町(現白山市)に住んでいて、松任小学校に通っていました。

国鉄(現JR西日本)の汽車に乗り松任駅から美川駅まで乗り、美川駅から手取川まで歩きました。

夏の暑い日でした。

重いリュックを背中にかつぎ、手取川の河口近くの橋を渡り始めた時のことです。

目の前に続く橋の長さを目にしたとき、永遠に辿り着けないくらいの感覚に襲われました。

手取川

手取川

インターネットより引用

極端に言うと、延々と続く砂漠に一人取り残されたような感じがしました。

美川駅から手取川に着いた時にはもう汗びっしょりで、頭もくらくらしかけていました。

昔は現在のように熱中症を避けるための教育的指導などはなく、むしろ遠足は体を鍛えるためにやるんだという空気が満ち溢れていました。

それでも何とか皆について行こうと必死に歩きました。

延々と続く橋、途中でダメになりかけながら、やっとの思いで向こう岸に辿り着きました。

昼ご飯を食べて少しは元気を回復しましたが、帰りのことを考えるとまたまた気が重くなってしまいました。

後日、大人になってから手取川の橋を渡ってみましたが、あっという間に通り過ぎたので、何故小学校の頃あんなに遠く感じたんだろうと思い起こしました。

子供と大人の距離感というのはかくも著しく違うということをつくづく感じました。

気多大社の原生林に圧倒され言葉を失った神秘的な体験

しゃかじいが小学校4年の時のことじゃった。

親父の知り合いの医者で石川県の羽咋(はくい)に住んでいたFさんを訪問した時、親父がせっかく羽咋に来たから気多大社に寄っていこうと言うので、どんなところかなと興味津々でついて行きました。

能登一宮として古くから北陸の大社として知られている古社で本殿などが国の重要文化財に指定されている由緒ある神社で祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)です。

原生林が生い茂る社叢「入らずの森」(国指定天然記念物)は一万坪にも及ぶ広大な敷地にタブ、ツバキ、シイ、クスノキ、カラタチなどの常緑広葉樹が密生し、スタジイなどでは樹齢300~500年の古木もあります。

毎日新聞 2019年11月21日より引用

しゃかじいは境内に入るやいなや、何とも言えない荘厳な空気に包まれました。

wikipediaより引用

社殿に連なる参道の両側を見た時、樹木の巨大さに圧倒され言葉を失いました。

本当に神秘的とはこのことを指すのだなと強く印象付けられました。

神聖にして犯すべからざる神域の中に自分が存在しているのが体感できました。

子供の目から見た巨木の姿は天にも届くのではと感じられたほどで、自分の小さな体が樹木に吸い寄せられていくのを肌で感じました。

大人になってから気多大社には参拝していないですが、小さい頃の感覚とはかなり違うのではないかと思います。

一度この目で小さい頃その大きさに驚嘆した巨木を見直してみれたらと考えています。

川原に降り立った鳶(とび)の大きさに恐れおののいた体験

しゃかじいが小学校3年の時の思い出について話します。

学校の帰りに川で釣りをするのは毎日の日課のようになっていました。

そのため、学校の校舎に朝、家から持って行った釣り竿を立てかけて、授業が終わるや否や、ゴミ捨て場で餌にするミミズをいっぱい確保して川に出掛けることになっていました。

そんなある日、いつものように釣りをしようと学校が終わると川に直行しました。

川岸に立って釣りをしようとした時、いつもとは違う風景に出くわしました。

川岸に鳶が降り立っていたのです。

天空を悠々と飛んでいつもピーヒョロロと鳴いている鳶が目の前にいるではないですか。

川岸に降り立っている鳶を見た時、その巨大さに驚き、恐れおののきました。

タカ目タカ科に属している鳶は鷲、鷹よりやや小さいとは言え、やはり羽を広げると大きかった。

インターネットより引用

天空を飛んでいる鳶からは想像できないくらいデッカイ存在でした。

それまでは三橋美智也さんの歌「夕焼けとんび」の牧歌的な響きでしか認識していなかった鳶が急に目の前に現れたのを見た時のショックは今もありありと覚えています。

その大きさに驚き、恐れおののき釣りどころではなくなってしまいました。

鳶の姿に自らの世界を相対化してみるゆとりはありませんでした。

子供の世界の特殊性は子供にしか知りえない永遠の謎を秘めていると思います。

そして、子供が目にするものは大人が目にして受け止めるのとは何倍も大きく感じるんだということを大人になって、初めて知りました。

子供から大人へと成長していく過程で等身大の世界は大きく変化していきます。

子供の時の衝撃的な遭遇を経て人間が成長しいわば当たり前の世界へと変化していくプロセスはどうしても不可解だと思わざるを得ません。

同じ人間が成長するにつれて全く異なった感覚を有するようになるのはどういうメカニズムなんだろうと考えるのは私だけだろうか?

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました