ベルリンでの思い!
ベルリン訪問
第二次世界大戦終戦の時の昭和天皇の詔勅(玉音放送)は1945年8月15日正午に日本の全国民にラジオ放送を通じて伝えられました。
その一節「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は多くの日本国民の知るところですが、あれから75年経って世界はどう変わったのだろうか。
日本、イタリアとともに三国同盟を結んだドイツ、第二次世界大戦の最中1940年9月27日にドイツのベルリンで調印され、この同盟関係によりヨーロッパ戦争、日中戦争に参戦していない国(主にアメリカを想定)からの攻撃に対する相互援助を約しました。
第二次世界大戦における連合国に対する対立軸として三国同盟(枢軸国同盟)は機能しました。
イタリア、次いでドイツが降伏し、最後に日本が降伏した第二次世界大戦の体験は今も日本人の心のとげとなって残っています。
ベルリンの壁
ドイツのベルリンで会合が開催され、私(しゃかじぃ)も参加いたしました。
宿泊したホテルはHotel Adlon Kempinskiですぐ近くにブランデンブルグ門があります。

ケンピンスキーホテル

ブランデンブルク門
ケンピンスキーホテルはベルリンのミッテ地区にある5つ星の歴史あるラグジュアリーホテルです。
外壁が昔の姿を留めており、内装は利用者のためリフォームしています。
欧州のホテルにはこのように外壁を保存しているホテルが多く、ただ新しければよいという考えに警鐘を鳴らしています。
ブランデンブルグ門はベルリンのそしてドイツの歴史の証人となってきました。
何よりも第二次世界大戦によるドイツの分断と1989年のベルリンの壁崩壊後の東西ドイツの統一のシンボルとなってきました。
ベルリンの壁崩壊
第二次世界大戦後28年間にわたってドイツを東西に分断し数えきれない悲劇を生んだベルリンの壁は1989年11月9日に終結し、壁が撤去されました。
この歴史的な統一を形として後世に残すため、ベルリンの壁の一部が遺されています。

ベルリンの壁崩壊
森鷗外のドイツ留学
津和野で生まれた森鴎外は、津和野藩の典医を務めた父の嫡男として、幼い頃から論語、孟子、オランダ語などを学び、1872年の廃藩置県をきっかけに10歳で父と上京しました。
実年齢より2歳多く偽り、12歳で第一大学区医学校(現東京大学医学部)予科に入学、19歳で本科を卒業しました。
1884年衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるためドイツ留学を命じられました。
ドイツではライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで医学を学ぶかたわら芸術鑑賞、パーティーへ出向き社交的な生活を送っていたようです。
小説「舞姫」のモデルとなった女性との恋愛も有名です。
私はベルリン市内でタクシーに乗っていて、ここが森鴎外の下宿先だと教えていただきました。
ベルリン中心部にある森鴎外記念館は鷗外の留学中の下宿先の場所にあります。

鷗外記念館

鷗外展示
森鷗外はドイツ留学中に北里柴三郎とともに近代細菌学の開祖とも呼ばれ、炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者であり北里柴三郎の師でもあり共同研究者でもあったロベルト・コッホ博士のもとを訪ねています。
北里柴三郎は日本の細菌学の父として知られ、ペスト菌の発見、破傷風の治療法の開発など感染症医学の発展に大きく寄与しました。
新型コロナ感染症拡大が続く世界状況ですが、これまで日本が感染症に果たしてきた役割は大きく、是非この厄介な新型ウイルス感染症撲滅に向けて日本の研究者に頑張ってもらいたいものです。
ポツダムを訪ねる
ベルリン郊外にあり第二次世界大戦の終結を宣言した場所ポツダムを訪れました。
私たち日本人にとっても忘れえないポツダム宣言、ポツダム会談が行われたところとしてあまりにも有名です。
ポツダム宣言の場所はツェツィーリエンホーフ宮殿で静かな森の中にあります。

ツェツィーリエンホーフ宮殿

ポツダム会談場所
日本に対する降伏勧告および戦後処理方針の宣言が作成された場所で、戦後日本の在り方が決定づけられたと言って過言ではありません。
1945年7月17日~8月2日にかけて、米国のトルーマン大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が第二次世界大戦処理方法を話し合った結果日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言がとりまとめられました。
この3首脳が会談した部屋を見学させていただきました。
説明してくれたガイドさんの話ではソ連のスターリン首相は窓の外からの標的となる椅子には絶対座らなかったそうです。
いまだに大きく問題を引きずっている北方領土問題などもこの会談が原点と言えるでしょう。
このポツダム会談による日本の無条件降伏の勧告を受諾して昭和天皇の1945年8月15日正午の玉音放送となったわけです。
戦後日本はどう変わったか
第二次世界大戦終結により日本はそれまでに保有していた領土のうち日本列島の北海道、本州、四国、九州を除き全てを失いました。
しかし、失った領土は全て占領統治していたところで、元々日本の領土であったわけではありません。
ドイツや朝鮮のように領土が分割されなかっただけでも本当に幸運だったと言えるのではないでしょうか。
しかし、沖縄は戦後長らく米国の施政権のもとにあり、1972年5月15日にようやく米国から返還され、本土復帰を果たしました。
戦後日本では、第二次世界大戦の反省から、平和日本の建設を旗印に民主主義国家の確立が急ピッチで進みました。
第二次世界大戦後、世界は資本主義・自由主義の盟主米国と共産主義・社会主義陣営の盟主ソ連の2大国の冷戦構造が形成されました。
第3次世界大戦勃発の危険性もなかったとは言えません。
日本はほぼ米国の占領下にありましたので、資本主義陣営の一員として戦後の再スタートを切ることになりました。
戦前日本の政治体制・軍国主義への強い反発から戦後マルクス主義・社会主義の導入による左翼思想が大きく台頭しました。
日の丸を掲揚するなとか、国家斉唱を行うなという考えの学校も多く現れました。
これは極端な場合訴訟も引き起こしましたが、国や郷土を愛する気持ちは誰にでもあると思います。
君が代は天皇を礼賛するために作られた歌ではないことは歴史的考証から明らかになっています。
※ 紀貫之が編者となった最初の勅撰和歌集『古今和歌集』に読み人知らずの和歌を採用したのが始まりで、後に日本の国歌「君が代」となりました。
マルクス主義、社会主義台頭の背景には資本主義・自由主義は全ての人に均等な富の配分を行うシステムではなく、格差を造り出す社会システムであるという考えが存在していると思われます。
軍国主義復活への大きな懸念もあったと思います。
これに拍車をかけたのが、1960年に日本と米国の間で交わされた日米安全保障条約です。
この時と1970年の日米安全保障条約改定の時、左翼陣営を中心とする日米安保条約締結反対の運動がかなり高まりました。
しかし、昨今の世界情勢を見ると、日米安保条約を締結した時代とは大きく様変わりしています。
強力な軍事力を背景に強引な海洋進出を続ける中国と、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮への対応は米国だけでなく日本にとっても喫緊の課題となってきています。
日本と安保条約を締結している米国もトランプ政権成立以来アメリカファーストの政治姿勢が鮮明で、安全保障面でも完全に米国に依存していて大丈夫かといった感じです。
戦後北朝鮮などの社会主義陣営の国を賛美する政党もありましたが、世界情勢の急激な変化はそれまでの政治思想や政党の在り方にも大きな変化をもたらしつつあります。
保守と革新に分かれイデオロギーや主義主張に明け暮れた戦後の日本の政治状況も大きく変わる時を迎えているのではないでしょうか。
自由主義、社会主義などいずれを選ぶか多様な主義主張が繰り返されて来ましたが、日本に民主主義が確立されたと言えるのでしょうか。
民主とは文字通り主権は民衆にあるということだと思いますが、主権(主役)は民衆にあるという理念が実現したためしはないように感じています。
色んな政党がありますが、旗印とする主義主張が異なるだけで、本音はお山の大将的な人の周りに形成された異集団といった感じで、真の意味で主権が民衆にある政治を実現していこうとする政権はこれまでなかったような気がします。
ある特定の政治団体、経済団体、宗教団体に利益がもたらされる政治が行われていて、あとのおこぼれがその他多数の人(民衆)に分け与えられるという構造が続いているように思えます。
これから日本が進むべき方向はどのようであるべきかは、まさに私たち一人ひとりに突き付けられています。
政治は自分とは関係のない世界と決め込んで、他人任せの態度を続けてきた結果が現在のような政治の混迷を造り出しているのではないでしょうか。
無意味で非生産的な議論に明け暮れ、国民一人ひとりの生活へ踏み込んで取り組んでいない既成の政治団体の在り方にもっと厳しい目を向け、個人個人が単に不平不満をぶつけるだけでなく民主の意味を真に捉えなおす政治に本格的に参画していかなければ、戦後日本の根本的改革は成しえないと思います。
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